堀江興成は、はじめ浜野政隨に学び益隨と称したが、明和六年に師政隨の死にあい、改めて大森英秀の門に入った。そして師家の一字を許されて英俊と改めたが、独立開業してから興成と名乗った。また、後藤系の尾崎直政にも師礼を尽くして交友したといわれている。その後、阿波蜂須賀家の抱工となり、自らの記録文書に「阿州臣堀江興成」と記している。
 本作は地板金無垢で裏哺金で、総じて後藤風であるが、町彫の斬新さも加味されており、格調の中にも雅な趣が湛えられている興成の優品である。